「镰仓殿的13人」里面,貌似不经意地加了一段后鸟羽院擦刀的镜头如果不知道历史梗的话,根本不会注意到实际上因为源平合战的壇ノ浦之战,平氏一族抱着安德帝和三种神器一起投海了……其中的草薙剣一直没有找到之后上位的后鸟羽帝是在没有草薙剣的情况下登基的……于是他很介意这件事,于是召集了 。展开全文,「镰仓殿的13人」里面,貌似不经意地加了一段后鸟羽院擦刀的镜头如果不知道历史梗的话,根本不会注意到实际上因为源平合战的壇ノ浦之战,平氏一族抱着安德帝和三种神器一起投海了……其中的草薙剣一直没有找到之后上位的后鸟羽帝是在没有草薙剣的情况下登基的……于是他很介意这件事,于是召集了多名刀工,设立了「御番鍛冶」,打造了很多日本刀,甚至他还亲自造刀……他会在自己的作品的刀柄处刻下代表皇室的12瓣菊纹or16瓣菊纹,这些刀被称为「菊御作」我曾经在京都文化博物馆的特展上看到了几把……後鳥羽上皇が無類の刀剣好きになった理由には、壇ノ浦で入水した異母兄「安徳天皇」(あんとくてんのう)と共に、皇位継承に不可欠な神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)が失われ、神器を持たずに即位した天皇としての引け目があったとも言われています。後鳥羽上皇自身が優れた刀の目利きであったことは、「後鳥羽天皇」の即位から15代、約150年間の歴史を記した歴史物語「増鏡」(ますかがみ)にも記されているのです。後鳥羽上皇は、腕の立つ諸国の刀工を「水無瀬宮」(みなせぐう:現在の大阪府三島郡)に集め、月番制で作刀にあたらせました。そして、自ら作刀にも積極的に取り組み、後鳥羽上皇自身が焼刃(やきば)した作品を「菊作」(きくさく)、あるいは菊御作として後世に伝えています。高貴な身分の人物が作刀した日本刀の証として、茎(なかご)には銘の代わりに、後鳥羽上皇が好んだ16や12弁の菊紋が毛彫りされており、これが皇室の紋章「菊花紋」の起源になったということです
