『今日は何も起こらなかった』
目が覚めたら、もう午前三時だった。カーテンは少しだけ開いたままで、部屋は灰色だった。スマホには「今日の最高気温三十四度」の通知(笑)。一日の気温だけ確認して、スマホを机の上に伏せる。コップにはまだ昨日の水が残っていた。少し埃っぽい味がした。本当は新しい水に替えようと思ったけれど、まあいいかと思って、そのまま飲み干した。
午前四時十五分。階下からキーボードを叩く音が聞こえてくる。軽く、少し打っては止まり、また少し打つ。〇はまだゲームをしているんだろう。猫がドアの前を通り過ぎる。床板の上を歩く小さな足音。その瞬間、今日もきっと、いつもの一日みたいに終わっていくんだろうなと思った。電車は時間どおりに駅へ着いて、うどん屋は昼になると暖簾を出して、コーヒーは少しずつ冷めて、煙草は最後の少しまで燃え尽きる。
机の上には薬のシートが何枚か置いてあった。それを開けて薬箱へ移す。プラスチックが時々、小さく乾いた音を立てる。パチ。パチ。パチ。見えない時計みたいだった。でも今が何時なのかも、どこへ行けばいいのかも教えてはくれない。気づけばキーボードの音も止んでいた。〇は休みに行ったんだろう。猫はまた床を歩いて、そのまま廊下の向こうへ消えていく。私は顔を上げなかった。きっと、みんなこれからもこうやって暮らしていく。またキーボードの音が響いて、猫は存在しない何かを追いかけて、午後になると陽の光は少し角度を変えて部屋へ差し込む。それが人生なんだな、と思う。
昔は、つらいときは泣くものだと思っていた。あとになって知った。泣くのにも体力がいる。何かを失うには、その前に、まだ何かを期待していることを認めなければいけない。受け入れたわけでも、吹っ切れたわけでもない。ただ、人を引っ張っていたいろんなものが、少しずつ手を離していっただけ。
コーヒーはまだ温かいし、煙草もちゃんと最後まで燃える。猫は今日もトイレのドアを引っかいて、〇はいびきをかく。ただ、一人いないだけ。ずいぶん考えた。考えれば考えるほど、そんなに違いはないような気がした。……そのあと眠ってしまった。目が覚めると、本当に世界は何も変わっていなかった。
昼になって、うどんを買いに出た。店主が「いつものですか」と聞く。「うん」と答えた。出汁は熱くて、一口目で危うく舌を火傷しそうになる。一本一本、最後まで食べた。ねぎも残さなかった。隣では誰かが週末の予定を話していて、仕事の愚痴をこぼす人がいて、子どもの夏休みをどうするか相談している人もいた。その真ん中に座っていて、ふと、自分だけが少し置き場所を間違えられた物みたいだと思った。
身体はまだ覚えている。横断歩道の渡り方も、買い物の仕方も、鍵を鍵穴に差し込むことも。願いなんてなくても、できることはたくさんある。止まらない限り、それらは勝手に続いていく。
家へ戻って二階に上がる。鍵と買ってきた飲み物を机の上へ置いたら、少し大きな音がした。どこへ行っていたのかと聞く人はいないし、帰ってきたことに気づく人もいない。
午後は机の前に座ったまま、ずっと動かなかった。コーヒーは少しずつ冷めていき、灰は灰皿の外へ落ちた。外では雨も降っていない。掃き出し窓の前にあった光も、ゆっくり見えなくなっていく。スマホがもう一度鳴ったけれど、裏返したまま見なかった。
部屋の中で「今日はどうだった?」と聞いてくる人はいない。まあ、入ってきたのは四匹の猫だけだし。……それに、話すようなことも特になかった。
霰がまたトイレのドアを引っかき始めた。一回。また一回。真面目なくらい一途に。あの子はきっと、ドアの向こうには何か大事なものがあるって、今でも信じているんだろう。続けていれば、きっと開くって。私はしばらく眺めていて、少しだけ笑った。あの子には、まだドアの向こうに何かがある。
夜になって、予約ページを開いた。
七月二十一日、午後三時。
そこに並んだ文字は、ごく普通だった。銀行の予約も、宅配の到着予定も、ゴミの日も、きっと同じくらい普通なんだろう。
〇のキーボードは、とっくにまた鳴り始めていた。霰もまだドアを引っかいている。コーヒーはもうすっかり冷めて、表面には何だか分からない小さなものが浮いていた。一口飲んでみたけれど、もう味はしなかった。
死がすぐ近くまで来ても、案外、何も変わらない。急に風が吹くわけでもなく、外では誰かが洗濯物を干していて、隣ではキーボードが鳴っていて、猫は一枚のありふれたドアを相手に、一晩中あきらめない。空が暗くなって、部屋の中のものが少しずつ見えなくなっていくだけ。
ただ、急に必要じゃなくなるものがある。
週末はどこへ行こうとか。
明日は何時に起きようとか。
洗濯物を取り込むかどうかとか。
冷蔵庫の食材はまだ食べられるかな、とか。
霰はまだドアを引っかいている。
私は立ち上がって、霰を抱き上げた。腕の中で少しだけ身をよじる。床へ降ろした途端、また同じドアへ走っていく。
同じ場所。
同じドア。
一回。
また一回。
しばらく眺めてから、台所で水を一杯くんだ。夜の水道の音はよく響く。コップを机へ戻す音は、とても静かだった。朝と同じように。
予約ページは、まだ開いたまま。
ドアも、まだ閉まったまま。
霰は、まだドアを引っかいている。
今日も、何も起こらなかった。
私も、まだ。
发布于 日本
